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ビザ(査証)/入国・出国印 紹介

私が海外一人旅を始めた頃(1994年)はまだEUもなく、欧州を旅する時は
国境を超えるたびに両替が必要だったし、共通通貨ユーロが誕生するのは
2002年でした。
東中欧や一部のアジア・中東の国々へ入国するにはビザ(査証)や強制
両替が必要だったり、今の時代からすると不便だったかもしれません。
ただ、私が1994年ドイツを旅して、チェコへ渡る際にベルリンで取得した
チェコ共和国のビザの美しさに惚れてしまってビザ(査証)コレクターに
なってしまったかもしれません。
そんなわけで私が集めたビザや入国・出国印を紹介したいと思います。

 緑と赤インク2色刷りチェコ共和国ビザ

 シンガポールとインドネシアの入国・出国印

 キリル文字が珍しいブルガリア共和国のビザ

 東京のポーランド共和国大使館へ郵送で取得したビザ

 タイ・スンガイコーロク、マレーシア・ランタウ 国境越え

 紋章がカッコいいルーマニアのビザ

 空港で取ったネパールのビザ

 ハンガリーのシングルビザ

 ハンガリーのマルチビザ

 こちらも切るる文字のマケドニア共和国ビザ

 タイから友好橋を渡ってラオスへ入国

 ラオス国境のタイ・ノンカーイからの出国・入国印

 インビテーションがないと取得できなかったヴェトナムビザ

 ヴェトナム入国・出国印

 アラブ文字が雰囲気満点イエメン共和国ビザ

 新婚旅行でストップオーバーして寄ったタイ入国出国印

 イエメン行きで一時入国したUAE入国出国印

 シンプルなギリシア入国出国印

 21世紀を迎えたパプアニューギニアのビザ

 ビザ不要なトルコはシンプルな入国出国印

 入国後、強制両替も必要だったミャンマーのビザ

 まさかNY同時多発テロにこの地で遭遇するとは。ヨルダン入国出国印

 

パゴダとバスと下痢と私(社会人ミャンマー編’01)

世界三大仏教遺跡ってご存知ですか?
・アンコールワット(カンボジア)
・ボロヴドゥール(インドネシア)
・バガン(ミャンマー)

の3つです。
前からこれは制覇したいなーと思っていたので年末は
ミャンマーへ行く事に決めました。
まずは年内に資格試験があったのでそれに合格しておいて、
旅行の準備。高校の同級生が旅行会社に勤めているので、
彼女に頼む。友達プライスでビザ取得も代行してもらい、
事務手数料をサービスしてもらったり、持つべきものは友人
やなぁ~と。エアチケットもプライオリティを上げてもらい
割と楽に予約が取れました。

・果物切れても人切れない
・笑いのツボ
・椅子取り夜行列車ゲーム?
・ミャンマーいちの名人
・私、旅人引退します
・快適船旅
・パゴダと初日の出
・マンダレー外大日本語科
・ダウンそして病院行き
・23時間バスの旅
・偶然の再会

死海に浮かびませんか?社会人トルコ・ジョルダン編(’01)

死海に浮かびたい。。。
漠然と抱いた夢を実現すべく急遽思い立った旅立ち。
でも、出発までは万全を期すためにお盆休み返上で仕事。
仕事のお客さんへの根回し。
上司へのそれとなぁ~くアピール。
そして、米中枢同時多発テロ発生。
念願の死海リゾート。
お金で最も揉めた珍道中。
帰国後の写真トラブル。

・ミッション・インポッシブル?
・誕生!ベリーダンサーおっくん
・金銭トラブル
・インディジョーンズ見た事ねぇ
・テロ発生!
・パレスチナ人地区にてアメリカ非難?
・死海で干からびた?
・遺跡に埋もれた
・写真でもトラブル

感動的世紀越え!まいど21世紀(社会人パプアニューギニア編’00~’01)

仕事が嫌になったとき、私は旅へ思いを馳せる。
あの時もそうだった、、、
どうしても旅立ちたい!と思った時、某旅行会社から格安チケット情報が メールで流れてきた。ニューギニア航空で行くケアンズの旅 XXX,XXX円! フライトを見るとパプアニューギニアのポートモレスビーを経由して、 オーストラリアのケアンズに行くらしい。パプアニューギニア?どんなトコ やろう???とりあえず、と思って旅行会社に電話して即予約。 でもビザは?

・旅立つまで
・リーダー氏との出会い
・大自然紀行
・大晦日も炎天下のバレーボール
・世紀越えはパーティーで
・初めてのリゾート旅
・そして帰国
・思ひ出、写真集

着陸=離陸20分前

イエメン滞在最終日の朝、アザーンで目覚める。

でも、早過ぎるのでまた寝る。 2度目の目覚め。私は宿変えをしたので、以前泊まった宿の そばのシャーイ屋に行く。一杯5リヤル。

そこであるイタリアーノの 初老から声をかけられた。「こっちに住んでいるのか?」「いや、 単なる旅行者だよ。」

彼はアラビア語を学ぶためにイエメンにもう かれこれ十何年も住んでいるという。そして、ムスリムであることも 私に告白した。

一般人はあまり英語を話さない(話せない?)この国で久々に話すのかどうなのかは分からないが、彼は饒舌になって 行く。故郷(クニ)の話、ムスリムの話、私について興味を持った ことすべて、、、随分話し込んだものだ。

長い朝食となった。 彼は私のお茶代を一緒に払ってくれて、私のたびの安全を祈り、 シャーイ屋を後にした。

お昼は簡単に済ませ、最後の街散策をする。やはり、オールドサナアは 美しい。

そして、リッチにタクシーなんか使っちゃったりして空港へ。I氏夫妻とも再会、ガルフ航空194便でサナアから空路アブダビへ。

アブダビ空港では私がお土産に買ったイエメンの民族ナイフである ジャンビーアが刃物であるとして手荷物預かりとなってしまった。

ナイフといっても刃の部分は切れ無いように施してあり、まさか 取り上げられるとは思わなかった。しかし、搭乗直前にもめてしまい 搭乗拒否されるのも困り者なので大人しく預けることにした。

さて、離陸の時間が来たのに飛行機が動かない。キャプテン(機長)の アナウンスで私はガルフ航空152便がバーレーン線との接続待ちで 遅れることを知る。

まっ、アラブだしそんなこともあるかなぁ なんて思っていた。ちなみに香港での乗り継ぎは一応1時間あるから 多少の遅れは大丈夫である。

しかし、待てど暮らせどあとから乗って来るはずの乗客が一向に現れず、どれくらい待っただろうか?少し 不安をよぎる。

どれくらい、待っただろうか。ようやく、乗客が 乗り始めて飛行機が離陸体制に入った時は時間も忘れるくらい でした。

飛行機では爆睡。この旅ではハッキリ言って寝る間も惜しんで 動き回った。

その疲れが今ごろ出てきたのだろう。食事の時間が 私の目覚まし代わりでした。やはり、起きると気がかりなのは 飛行機のarrival time。スチュワーデスに確認を取る。

が、着陸予定時刻が乗り継ぎのフライト離陸30分前だという。 これでは手荷物で預けさせられたナイフは取り出せない。

ギリギリ自分のチェックインするのがせいいっぱいだ。 (乗り継ぎはキャセイパシフィック航空のため、チェックインが 香港の空港で必要でした)

これは少しでも早く ”こと” を進めるためにスチュワーデスとかけあい、チェックインに間に合うように早く飛行機から降ろしてもらえるように交渉した。

また、乗り継ぎのフライトが出てしまわない ように地上スタッフに連絡をとってもらいそれなりの措置をとる よう依頼した。

彼女たちは快諾してくれて、ファーストクラスの 乗客と同じタイミングで飛行機から降りれるよう手配してくれる よう約束してくれた。

飛行機の首が下を向き始めた時、いよいよ運命の時が来るのを その肌で徐々に感じ始めました。ドン!車輪が地面と対面した時、 胸の鼓動が激しくなると同時にチェックインカウンターに走るため 心臓が準備を始めたのか?ドキドキドキドキ。

飛行機ってやつは着陸してからが意外に長い。ノロノロと空港内を 歩を進める。フッと時計に目をやる。

次のフライトCX502便の departure timeは16:20。ただ今の時刻、ポーン!16:00 ちょうどをお知らせします。(お間抜け時報風に・・・)

ひぇぇぇ~あと20分やん!飛行機はようやく止まった。 私はいつも降りる時は前の人が動き始めてから席を立つというノンビリ派だが、この時ばかりはたち上がった。

するとさっき約束した スチュワーデスが人を掻き分け私の元にやってきて先に進めるよう 先導してくれた。

で、他に同じ便に乗る日本人が居るか?と聞くので とりあえず、I氏夫婦が居ることを告げた。その時、I氏夫婦は どうしていたんだろう?聞くのを忘れた(^^;;

機体のハッチが私の目の前で開けられる。これを見れただけでも 感動!で、ダッシュするとキャセイパシフィックのグランドスタッフが居た。

なんだか知らないがすでにチェックインは勝手にされてたみたい。 で、私はグランドスタッフにジャンビーアという手荷物を手早く ピックアップしたい旨を伝えると、香港ガイはトランシーバで色々 問い合わせてくれた。

で、どこかに消えていったので私は不安になり 別のスタッフにまた駆け寄り、荷物の話をする。この時の英語力は 今までの人生でトップクラスだったのでは?

まさか、英語でこんな クレーム処理ができるなんて、、、人間追い詰められると何するか 分からんな(笑)

私のアツイ思いも虚しく、香港ガイの宣告が私に下った。 「君の荷物は間に合わない、グズグズしてると君は飛行機にすら 乗れない。荷物はわれわれが責任を持って日本の君の元に送るから あとは日本のスタッフに言ってくれれば良い。とにかく急げ!」と。

私は後ろ髪ひかれる思いであったが私が乗れなければ意味がないので CX502便に乗りこんだ。CX502便は無事、関西国際空港に降り立った。

私も無事。 関空でロストバゲッジの手続きをする。明日のフライトで恐らく ほとんどが帰ってくるというので愛しのジャンビーアは明後日には 再会できるだろう、、、と思っていたのに。。。。。。

来ない!おかしい。なぜだ?私はすかさず関空の手続き時に聞いた 電話番号に電話をする。「この番号は現在使われておりません。」

へ?どーいうこと?仕方なくその時もらった紙に書いてあったところに電話すると、 手荷物関係は別の電話番号だから掛けなおして欲しいと言われる。

シブシブ、掛けたら担当は欠席。代わりの人に話をして事情を聞くと なんだかハッキリしない。とりあえず明日電話をよこすように言って 電話を切った。

とりあえず翌日待った。が、朗報はなかった。ただ見つかっていない という連絡が私の家族にはあった。

私の家族は電話主の名前と連絡先を 聞いたが、私が知っているからと教えてくれなかったそうだ。 その翌日。また連絡がない。荷物はなくなったのか?不安がよぎる。

それよりもキャセイから正しい連絡がないのが癪に障り、怒り、電話をただ待った。担当は話にならず、前回の代理の担当も話がわからなすぎる。

仕方ないので後日会社のほうに電話があったとき担当者の上司を電話口に 呼び出した。「どーいうことやねん、関空で教えられた番号は間違ってるわ、 渡された紙に書かれた番号は部署が違うってかけ直すように言われるし、 挙句の果てに状況報告の電話の主は電話番号を私が知っていると言い、 教えなかった。

私は間違った番号を教えられていたというのに。。。 何で電話番号を教えられへんねん。(なんか、やましいことでもしとる んかー!って怒鳴りそうになった)

とにかく、どーいうつもりなんじゃー」と。数日後、やっと朗報が届けられた。「荷物がアブダビまで戻っていて 二日後には香港に戻りますのでその二日後にはお届けできます」と。

私は今や私担当に成り下がった元担当者の上司の人間と話をした際に なぜ?このように電話対応が悪い、電話連絡が入らないなどのお客様 軽視のトラブルの対応になったのか、報告書の提出を求めた。

しかし、後日届けられたのは何も入っていないただ単なる詫び状であった。 私は詫び状なんか気分が悪いだけじゃ!と思ったけもののそのヒート 状態も一晩寝て冷やされた。

相変わらず怒りやすく、冷め易いタイプだ。 (えへ、、、でもちゃんと届きました、ジャンビーア ^^;;)

ほとぼりも冷め3ヶ月以上たった8月末のある日、キャセイパシフィック から一通の手紙が届いた。オリジナルテレカを添えて。。。

関空の手荷物係りからではなく、日本法人の本部?からだった。 くそぉ、なんかしてやられた感じがする。(モノで釣られた?) これで一件落着にしないといけないな。

悔しいけど人気ナンバーワンのキャリアだよ、キャセイさんよ。

帰ってきた休日

サユーン滞在最終日を迎えました。

前の晩にI氏からあるお誘いを 受けていた私はさっちゃんを置いて二人で早起きをしてホテルから 歩き出しました。 日の出に間に合うだろうか?

そう、ホテルから見えるあの小高い丘に登って、日の出を見に行こう! というのがI氏の昨夜のお誘い内容でした。

元バックパッカーと引退間近?のバックパッカー。ドミトリーで 知り合ったバックパッカー同士が意気投合、即一緒に行動という 感じの構造かな?(笑)

おっかしーなー、見えるんだけどなぁ~。 段々、辺りが明るくなっていくのが分かる。おっ!見えた!あれや。

ちゅーか、怖くない?砂で滑りやすい細い尾根道をあがる。 もちろん、息も上がる(笑) なんとか間に合った。街を一望できる丘はかなりいい位置だった。 間に合って良かった。

日の出を堪能したあと二人は丘を降り、 ホテルに戻るが途中道に迷うというオマケ付き♪ それはご愛嬌という事で、夕方のフライト前にサユーンの街を散策。

で、街のアイスキャンディー屋にいき、ひとつ5リヤルの着色料を ふんだんに使用していそうなアイスをガブリ。そのあと王宮も探検。

疲れきった体で空港へ。Y氏とも合流(おっ、久々の登場!!)首都サナアに帰るフライトもやっぱり自由席。今度こそ、シバームを 空から撮るぞ!と意気込み、行きと同じ左側の窓際をキープ。

しかーし、またしても右。フラれた~。 というわけで飛行機は無事サナアに着陸。 I氏夫婦は新婚旅行のフィナーレを飾るべくヒルトンホテルへ。

私は最初とは違ってローカルのバスで、途中で乗り換えて街へ。 バスに乗り込むとイエメン人ばっかり。(当たりまえ!)

とりあえず、乗客に「アッサラーム・アライクム!(こんにちは)」 みながおっ!という顔をして「アッサラーム・アライクム!」と応えてくれたあとは笑顔いっぱいで「イエメンはどうだ?(と、 たぶん聞いていたはず。アラビア語だったのでわからない。)」 と聞いてくるので、「イエメン、タマーム!(イエメン、いいぞ)」を連発して握手攻めに会う(笑) バスの終点で降り、泊まろうと思っていた宿にチェックイン。

ふぅぅぅ~。 一息つく。もう私の旅もそろそろ終わりだなぁ~。 宿でゆっくりしているとなんだかはじめて今回の旅でゆっくり したかなぁ~。

もっと、休みが長ければゆっくり旅ができるけど 仕方ない。私はなんてったって、サラリーマンなのだ。 明日はイエメン最終日。といっても16時のフライトだ。 とりあえずゆっくりしてみようか、、、

命の水を飲み干すまで

さて、とうとうイエメン最大の目的地?と言ってもいいシバーム・ワディハダラマート 通称オールドシバームへ向かう日となりました。

後半のハイライトとなること間違いなし。 この日は奮発してタクシーをチャーターして一日2往復してもらうことに。

まず涼しい朝方に1回行って、ウロウロし暑くなるお昼にはいったんサユーンに 戻り、涼しくなる夕方にまたシバームへ行くという方法をとることに。

こんなことは一人ではきっとできない。 タクシー代金をシェアできる喜びがある。それもI氏夫婦と仲良くしてもらって いるから可能な訳であって、、、

そういえば昨夜のディナーも結局、3人でとったなぁ。朝、サナアで買った現地人も頭に巻いている布を自分で巻いてみる。

さっちゃんはI氏の分を巻く。 外は暑く、日差しもきついので巻いていてちょうどだ。

さて、シバームへはすぐに着いた。街の門をくぐり足を踏み入れる。 静かだ。 時は紀元8世紀から止まっているかのよう、、、

時々ニワトリなどが通り過ぎる。

土の摩天楼の窓から子供が手を振る。 静かな散歩。 いつの間にか街の裏側まで到達した。そこに広がる風景は広大な大地。 遠くには山が見える。

正確に言うと今居る位置は実は峡谷の底。

と、一人の男が自らの家に招き入れる。台所、居間、作業場、洗濯場etc… 彼はここに一人で住んでいるようだ。

子供の写真を見せられるが、 そのこの姿は見れず。言葉が通じないので分からないが、なんらかの理由で離れ離れになったようだ。

とお昼になったのでいったん宿に戻る。

夕方、また街まで行く。午前中と同じように街の裏側まで歩いて行く。 少し丘になったところに少年たちが集まっていた。

これはいい写真を 撮れるかも?と近づいてみたら。どうやら彼らが手招きしている。

彼らは歌を歌っていた。それに手拍子を打つ、打つ、打つ。ひたすら、、、

そして丘から下を眺めると少年たちがサッカーをしている。 そこでなぜか私はサッカーに混じりたいと思って丘を駆け下りていった。

5~6人がサッカーに興じていて、一緒に走り回るが暑さにすぐ 参ってしまう。喉がカラカラ。持ってきたペットボトルの水を飲み、 喉を潤す。

しかし、飲んでも飲んでも喉が乾く。 今日メインの夕焼けのオールドシバームの写真を撮る時まで水は もつのか?

そんなことをしている内に夕方が迫ってきた。シバームの街が赤く 染まっていく、、、はずだった(^^;;

しかーし、それを拝むことはできずじまい。

影がすぅーっと延びる。赤く染まってはないけどシバームの街は綺麗だ。

これは言葉では表現できません。世の中のモノ書きの人! イエメンに行って私の代わりに表現してくだされ(笑)

稚拙な文章しか書けない私には無理です。I氏夫婦も景色にうっとりしてる。

「結婚しました」お知らせ葉書用の写真もシバームの街を背景に撮る。

そーいや、私はたくさん候補写真を撮ったなぁ~。

—後日談、帰国後お二人から「結婚しました」葉書が届いた。

残念ながらこの時のシバームの街ではなかったのですが、 私が撮影したオールドサナア街並みが 背景の写真でした。

もちろんラブラブ・ツーショット♪

やがてあっという間にシバームの街は夕暮れから夜の顔に変わった。

その間にもミネラルウォーターの水位は低くなっていたようで、I氏に シバームを背景に写真を撮ってもらおうと調子に乗って水を飲む仕草をしたら、、、

み、水がっ!なくなっていた!街に見惚れて無心にシャッターを切り、 ミネラルウォーターに手が伸びているうちになくなってしまったようだ。

命の次に大切な?水なのに、、、 だから、さっちゃんからもらった(笑)

街の外の砂漠?では砂塵嵐が起き、その中を黒装束の女性が歩いている様は エキゾチックで、少し身震いがした。

12世紀も時が止まったかのような街、 砂漠の砂嵐、黒装束の女性達に後ろ髪をひかれつつも、命の水が尽きたから でもないが、時間も時間なので拠点の町サユーンへ帰っていきました。

いざ砂漠へ

さて、私の新婚旅行はイエメンの国内線に乗って移動する先ですら 続きます。新婚旅行にココまで同じ行程で良いのだろうか?なんて 思ったりもしましたが、一度乗った船です最後まで・・・です、ネ?

というわけで首都サナアからイエメン唯一のエアラインである イエメニア航空のサユーン行きに乗るべく早朝4時起き。

えっ?なぜ? それは・・・。イスラムのお祈りであるアザーンにこの旅で初めて 起こされたのです。

街中のモスクのスピーカからバカでかい音で 彼らのお祈りが流れてきます。アッラ~フ、アクバルアッラ~フ、アクバルアッラ~フ、アクバルアッラ~フ、アクバル

・・・でもちょうどいい。

どうせ5時おきで7時には空港に行かねばなら ないから・・・。しっかし、このお祈りが面白いのは生のお祈りの声を流しているという事。

つまり、お祈りをしている人(代表者?)の声がそのまま流れている点です。

どういうことかというと、なぜかデカイ声のほうがいいとでも思っている のかどのスピーカからも思いっきり声を張り上げて、キバっている声が 流れているのです。

あまりにも頑張りすぎて咳き込んでいる 人もいる。これはあまりにもカッコ悪すぎる。 こんな感じ。アッラ~フ、アクバルアッラ~フ、ゲホッ、ゲホッバルアッラ~フ、アクバルアッゲホッ、ゲホッ、ゲホッ、 ゲホッル・・・

さて、飛行機に乗り込んだ。機内預けの荷物は自分で飛行機のコンベアに 責任を持って乗せなければイケナイ。I氏夫婦は今回荷物が多いので機内預け荷物 があり、それをコンベアまで運ばねばイケナイ。

しかし、飛行機の席は自由席。 ということはいい席を取るためにはソッコーで乗り込まなければイケナイ。 ということで私がI氏夫婦の席もキープすることにした。責任重大だ。

左側が シバームの街並みが見れるということで私も含め左側の窓際をキープ。 新婚旅行見届け人としてはお安いご用です♪

が、なんとシバームの街は右側だった。 砂漠の摩天楼を飛行機から見るなら左側の席を死守せよという情報があった ためにせっかくキープしたのにぃ~。

ということで飛行機からシバームの街を望むことはできなかった、、、残念 しかし、復路があるサ。で、着いたのはサユーンという砂漠の街。

私は虫刺されがひどくてちょっと快適な 宿にしようと思っていたのとI氏夫婦もいい宿にしたいと思っていたので、私が 旅立ち前にイエメンに行ったことのある友人から聞いていたプール付の宿に向かう 事にしました。

サユーン空港の地図に唯一載っていたくらい有名なようだ。。。

着いてびっくり。プールはある、部屋にトイレもバスルームもTVもエアコンも、 そして・・・冷蔵庫もある!!!!!!!!

めちゃくちゃびっくりした。なんで冷蔵庫?これで11ドル。

私には高級ホテル だがこんなに充実してたら逆に怖い(^^;;

で、しばらく休憩してからサユーンの街に散策に出かける。砂漠なだけに暑い! ということで昨夜、I氏、先生共に購入した頭に巻く奴をつけた。

かなり涼しくなる、、、 お昼を食べる、かなり安い。アイスを食べる、そうとう安い。やはり都会より 少しは安いようで・・・。

おなかもいっぱいになったことだし、ちょっと近郊の街に でも・・・ということで”タリム”という街まで乗合タクシーで行きました。

最初、誰も乗っていないライトバンのタクシーに余裕で座れると思ってたけど、 I氏のアドバイスにより3列目の座席に3人が小さくなって乗り込み、

暫くすると真中の座席に大の男が4人ぎゅうぎゅうに座り、助手席に二人座り前が見えない 状態になってタクシーはとりあえず出発。

途中、一人乗せさらに窮屈になって 車はひた走る。数人は降りたものの結構な数の客がタリムまで行き、降りて タクシーの運転席側の窓からお金を手渡す。

もう夕方が近く、ラクダの放し飼いを 見て、町外れの丘にあがり夕陽を眺める。

しかーし、ゆっくりしすぎて地上に降り立ったときはあたりは闇。街に街灯らしきものはほとんどなく、 だんだん怖くなってきた。

しかも、道に迷った! 必死になって明るい方向を目指す。次第に汗が出てくる。これは砂漠に居るから? イヤ、夜の砂漠は冷え込むはず、、、

そのとき!1台のタクシーが通りかかる。逃すものか!私たちはタクシーを止め、サユーン まで行くように交渉する。

値段もそんなに高くなかったので妥協。 タクシーの運ちゃんはちょっとシャイ。外国人の私たちに気を使ってカセットテープをマイケルジャクソンの曲なんかに変えるので、それまでのアラブ調の曲の方がいいとわざわざ私たちはリクエストした。

砂漠にまっすぐに延びる道。ふっ、と天を見上げると・・・満天の星空

北海道で見たあの星の数の比ではない。さすが、砂漠。さえぎるものが何一つ ないのだろう。

光もないし、スモッグもないし、、、 できることならこの辺りにテントでも張って寝てみたい。

でも、身の安全などを考えると素直に帰ったほうがよさそう。。。私は心の中で 残念に思いながら星をずっと眺めていた。

のんびりサナアで休日

前回の話でなんで日本人とドライバーが消えたのか?知りたい!という 要望が挙がったので少しだけ触れておきましょう。

実はシバームとコーカバンは山道で結ばれているという話をガイドブックで知っていたのでY氏を除くみんなは良ければ軽くレッキングをしたいなぁ・・・ という話をしていたものの、Y氏だけはかたくなに拒否をしていました。

実際、現地に着くとあいにくの雨。しかも私が軽い高山病のような感じで調子が おかしかったので諦めていたのですが、

Y氏だけは雨でも私たちが歩いて登ると 思っていたらしく、自分がトイレから出て来た時に出口付近に誰も居なくて、 私たちが近くの広場で写真撮影をしているのを知らずに先に歩いて登ったのだ と思い込み、車で先に山の上の町まで登ったというのが事の真相でした。

しかし、普通歩いて登るにしても上の町での待合せ時間とか場所とか決める じゃん!とI氏はお怒りのご様子でした。

女の子らしい遊びです。

こんな幻想的な旧市街もオツ。

明日は飛行機に乗って砂漠の街サユーンに行くのだ。 だから、旅の前半最終日はサナアでゆっくりのんびりしよう♪ と思っていました、、、

と・こ・ろ・が一昨日、昨日と泊まった宿はどうも環境が悪かったらしく、ダニ?にでも 噛まれたような、もしくは虫にでも刺されたような跡が手・腕に残っていて、挙げ句の果てに足のふくらはぎの辺りにまで赤いポツポツがあって、 少しカユイ。

よって、宿を変えました。さ・ら・に今まで旅して来た中で最も強烈な腹痛に見事に見舞われてしまったのです。

時に下○をもよおし、時に強烈な腹痛がやってきて、ようやく見つけた トイレに駆け込んでも巨大な爆音と共にガスが放出されるだけであったり、時にとめどなくしかし水っぽくない○○○が出たりとこの日一日私を随分振り回してくれました。

結局、今回のタイトル「のんびりサナアで休日」なんてものではなかったの でした(^^;;そんな私でも楽しむ時は楽しむゾという事で旧市街をプラプラ散歩してたら、 またしても子供たちの登場です。

「ス~ラぁ」また例の写真撮ってぇ~攻撃です。 しかし、このころは私も心得たもので写真を撮る真似だけしてみたり、少し 暗いところではフラッシュだけたいてみたりして子供たちを騙したりしました。

また、彼らを欺くために私はそれまで彼らが遊んでいたサッカーボールを 奪い取りました。その瞬間、ミニサッカーゲームのホイッスルが鳴りました。

「ピピーーーーー(と心の中で)」開始直後から壮絶なボールの奪い合い!という訳でなく何とも 張り合いのない子供たち。

パスされるのをじっと待っています。これが1月に 行ったヴェトナムだったら、スライディングはしてくるわ、どさくさに紛れて ケリを入れてくるクソ坊主がいるわで大変なのですが、大人しい パスの回しあいというイエメンスタイルの子供サッカーで終始落ち着いたもの。

逆に私が飽きてしまってその場を去るというのが多々ありました。

そして今夜は先生の最後の夜。別れを惜しみつつイエメン人しかいないような 店に入り晩餐。

これが大正解!めちゃ美味い!めちゃ安い!

おまけに厨房で ホブズ(イエメンのパン)を作るのを体験させてくれたのです。

といっても型どられたパンに焼きやすいように小さな穴を開けるという作業だけ でしたが、、、(^^;

あとは釜にパンをひっつけるところもするか?って言われましたがヤケドが 怖くてそれは辞退しました。

でも、なかなか体験できないこともできたし、 いい夜でした。明日からは砂漠へ移動です。いよいよ、砂漠の摩天楼の街シバーム・ワディハダラマートとの対面です。

日本人1人とドライバー行方不明(後編)

雨は依然降っている。

このままいつまで待てばいいだろう?そんな 不安がどこかによぎっていたかもしれない。私はドライにもう放って おいてもええんとちゃう?とさえ思い始めました。

何気ない普段の生活、、、

建物の軒下で雨宿りをしていると同じく店の軒先で雨宿りをしている イエメン人たちがこっちに来いと手招きする。

シャーイでもおごってくれるんかな?と私は甘い期待を抱き、同じ 場所で雨宿りをしていた先生と一緒にその場に行く。

するとその店のイエメン人は「軒先でなく中に入れ」と入れてくれた。 まさか、そんな雑貨屋の中まで入れてもらえると思っていなかったので (シャーイをゴチになりたいと期待をしてはいたものの・・・)

少し驚き、早速I氏夫婦を呼ぶ。彼らも店の中に入り、お喋りタイム の始まりだ。どこから来たのか?名前は何と言うのだ?何歳なのか? 結婚しているのか?なかでもさっちゃんは人気。

とうとうイエメン人 の一人がさっちゃんに指輪をあげてしまう始末。さっちゃんは別の街でイエメン人にもらったおもちゃの指輪を代わりにあげた。

「私、(I氏と)まだ指輪交換してないのに先にコッチでして しまった~。じゃあ、(I氏は)第2主人だね?(笑)」 なんておどけてみせて皆の笑いを誘った。

しばらくしてイエメンにさっちゃんの第1主人が誕生しました。(笑)雨が緩やかになったのでその店を辞し、街を散策する。

そんな時、子供達に「ス~ラぁ♪」と囲まれて写真撮影大会が始まった。

シャッターを切りながらI氏が「おっいいねぇ~」と言うので!私が 「”いいねぇ”は”(アラビア語で)タマーム”だよ♪」と子供達に 教えようと「おっ、いいねぇ~、タマーム」と必死に伝えるが、子供達は それが日本語だと思ったのか?「オッイイネェタマーム」を一語として連呼し始めた。

「オッイイネェタマーム、オッイイネェタマーム、 オッイイネェタマーム、オッイイネェタマーム」

そのたびに私たちは大爆笑。子供が面白がり、また「オッイイネェタマーム、 オッイイネェタマーム、オッイイネェタマーム、オッイイネェタマーム」 と大合唱。

コーカバンで「オッイイネェタマーム」と連呼する子供達に会ったら それは私たちが教え込んだ生徒達です(笑)

そんな楽しい時もやがてお別れの時。このまま上に居ると下(シバームの街)に 降りる道が暗くて歩けなくなるだろうとこの場を去ることに。

子供達に手を振り去ろうとすると子供達がまた大合唱「オッイイネェタマーム、 オッイイネェタマーム、オッイイネェタマーム、オッイイネェタマーム・・・」

私たちが遠くにまで行ってもまだまだ大合唱が続く。声だけが聞こえる。 始めは受けて笑っていたけれどもやがてそれが余計に寂しさを誘うようになる。

さっ、意を決して下山の決意をした時、ひとりの男が「サチコ○○○○は いるか?」と尋ねる。なぜ、さっちゃんの名前を知っているのだ??? 「日本人の男が探している。」と言うのだ。

いっせいに皆が顔を合わせる。行方不明になったY氏だ!! みんなに安堵の表情が見えた。私はすかさずY氏のしゃべり方を真似して みんなを笑わせる。

男についていき、ある建物に入るとそこには数人の イエメン人とドライバー氏とY氏が居た。 (えっ?やっぱりこっちから声を掛けた方がええんかな?)

みんな言葉を失い、 緊迫した空気が流れる。Y氏はどう弁明したらいいんだろう?っていう顔をしてる。

しばらく静寂が辺りを支配し、ポツリポツリと言葉が漏れ出した。 それよりも雨に打たれて、寒くて、寒くてぬくい飲み物がちょうど欲しいなと 思った時、シャーイが出てきた。

一番寒がっていたさっちゃんに飲ませてあげる。 私が飲むころ、なんとアザーンがテレビから流れてきた。もう16時なんや、、、 今日は色々ありすぎて1日が早かったなぁ・・・

そして帰る時、「オッイイネェタマーム」と連呼する子供達はもう居なかった。 サナアに帰る時が来たんや、、、

その夜、晩御飯の時間の待ち合わせをして、それぞれの宿に戻った私たちでしたが、宿に戻りぐったり寝こんだ私と先生は(部屋をシェアしていた) みごとに爆睡(^^;

起きた時間が待ち合わせの時間を過ぎていたのは言うまでもない・・・

こうして波乱万丈の1日は去っていきました、、、

日本人1人とドライバー行方不明(前編)

イエメンに行く時は部族ゲリラに気をつけるように! 誘拐事件が多発しているからだ。

と出国前にほうぼうで言われました。 それどころか陸路移動はほとんどできないよ!というのが大方のイエメンの 評判でどれくらいできるか?パーミッション関係はどうだろう?不安だらけの 出発前でした。

実際当地に行ってみて、そこまで緊迫した様子はなかったのですが、4日目に事件は起きた!

イエメンで知り合った日本人5人で一台車をチャーターして、サナア近郊の 一日ツアーを組んだ日のこと。目の覚めるような晴天の下、TOYOTAは 快適に飛ばす。

峡谷の上にてドライバー氏と

こんな岩山に街がっ!

ロックパレスという岩の上に砦ができたものやどうやってこんなもんをこんな ところに?っていう岩山の街などを見て古代イエメンの建築技術に舌を巻き、 車はどんどん高度を上げていきました。

それに伴い私の元気も少しずつ失われ 高山病?って思うような感じになってきたころ、間の悪いことに天気が崩れて来た。

「男心と山の空♪」とさっちゃんが言った言葉に返す言葉のなかった 男性陣の4名(笑) 続いて移動する。

次に行ったのは同時代に同じ民族が350m の岩壁の上と下に街を築いたという珍しい双子都市シバームとコーカバン。

下側の街シバームでイエメン料理に舌鼓を打ったあと、下痢中だった私はトイレに、 他のみんなは外に出て雨の上がった広場で上の街コーカバンを眺めていました。

私がお待たせ~と戻り、さっそろそろ行きましょうか?って時に発覚!日本人1人とドライバーが車ごと消えている!!

えっ?(^^;

手分けして探すが近くには見当たらない。消えた!その事実だけがハッキリしていた。 どうする?先に行ったのか?それなら上の街での待合せとか言ってから行くやろ?

どうしよう?

仕方がない、タクシーで追っかけるか?それならあとから彼らがココに来たらどうする? その時、子供が1人やってきた。

ボールペンをくれと言う。I氏がこの子に託そう!と 手紙を書き、「日本人がやって来たら見せるように」とボールペンをあげて頼み、 タクシーに乗り込む。

足元を見たドライバーは少々値段をふっかけてくるが仕方ない。 それならと道中、写真撮影のために車を止めてもらう。

ドライバーは日本人は クレイジーだと言うがお構いなし、折角の旅行だから楽しまなきゃ。パッカー魂が逆境を 順境に変えるまでだ。

コーカバンという山の上の街に着く。が、当たりには見当たらない。 車が入れそうなところまで行くが駄目だ。

見つからない。諦めムード漂う。

やがてまた 雨脚が強くなって来た。雨宿りをする。周りはひっそりとしておりまるで廃虚の街のよう。

しかし、見つからないからと足場の悪い山道を下山するのはかなり危険だ。 私たちは雨があがるのをただ、ただ待つしかなかった、、、

To be continued

朝陽を受けて、ス~ラぁ♪

私が現地で最初に覚えたアラビア語は「スーラ」です。 なぜか?子供たちが旅行者と見ると集まってきては「ハロー、スーラ」といい皆 ポーズを取るのです。

そうです、「スーラ」は「写真」という意味です。 これはアラビア語会話集を開くまでもありませんでした。子供たちにリクエスト されるまま撮っていたのではフィルムがいくらあっても足りません。

でも、私は 撮ってしまいのちに苦しい思いをする羽目に、、、

前夜の興奮の結婚式から明けて、折角だからと高層建築の 宿の屋根に上がる。階段をひとつひとつ上がる。息が上がる。

これはサナアが 標高2300mの割に緑が少なく日本でいうところ3000以上級の標高に値する から息が上がっているのか?

「歳だからでしょ?」ってあっさり否定される(^^;; 苦労の甲斐あって最上階にたどりつき目の前に開けたその景色はそれまでの 苦労をかき消すには十分過ぎた。

ちょっと朝食前に景色を眺めようって言っていたのになんだかんだ景色に見入り、 無心でシャッターを切ったせいで1時間は居たと思う。

わずか8畳ほどの屋根に。 I氏はさっちゃんを呼びに行った。その間、ぼぉ~っと景色を眺めていたはずなのにフィルムはどんどん減っていく。

すがすがしい朝。朝陽を受けてスーラを 撮りまくり。8時半に先生がサナア散歩から戻ってくるので階下に降り朝食にする。

お菓子の街をバックに

ス~ラぁ!

昼ご飯を約束してみなめいめいに観光に出かける。私は先生とともに宿換えの為、 荷造りをして旧市街を出て、タハリール広場近くの宿に移ることにする。

途中、タハリール広場ではイエメンの伝統的な踊り?のジャンビーアダンスに遭遇。 後ろのほうで写真を撮っていたら、みながこっちに来い来いと入れてくれてあっと 言う間に大きな人だかりの最前列に入れてもらえた。

そして、皆くちぐちに写真を 撮れ撮れと言う。心遣いは嬉しいがフィルムがなくなるよ~。(泣)

ひょっとしてAPSフィルムも売っているかもしれない?と色んなカメラ屋さんを 巡るが見つからない。

最後の一軒というところでもないのか?どうなのか?言葉が 通じず諦めかけた時、黒装束に身をまとった女性に「May I help you?」と英語で 声をかけられた。

男性ならともかく、黒装束に身をまとった女性から声をかけて もらえるなんて!その時は興奮のあまり彼女と何を話したのかもう覚えていない。

確か、APSのフィルムを探していると言ったら店の人にアラビア語で聞いてくれて 店を紹介してもらい、連れていってもらう道すがら、名前を聞かれたり、聞いたり どうしてイエメンに居るのか?を聞かれたり・・・etc.

ただただ興奮で緊張してた。 その時、私達の後ろを歩いていた先生は「すんごい光景でしたよ。旅行者が黒で まとわれた女性とツーショットで歩いているなんて!」とやや興奮。

そんな夢のような時もフィルムを買うという行為が終わると過ぎ去ってしまった。緊張した兄弟。

印象的だった。

その後、先生が昨夜のフライトキャンセルで返金されるドルを受け取りに行くので ついていく。それを終えて旧市街の散歩に出かける。

先生と美味しいシャーイを 探そう!と旧市街をバーバルヤマンからスタートして細い路地を行く。道すがら相変わらず子供達に「はろぉ~、ス~ラァ!」って声をかけられる。

ふっふっふ。フィルムを追加購入することができることを知ったからには心配ない。 ここから私の写真撮りすぎ現象が止まらなくなってしまったのです。

…初夜

さっそく後日行くであろうサユーン行きの飛行機の予約と帰りのリコンファームの為に街に出る。ボチボチ街を眺めながら行くので足取りはゆっくりだ。私はこういうのんびり した旅が好きだ。空港のイエメニア航空(イエメン唯一の航空会社)のオフィスで 職員に40%割引の紹介状を書いてもらっているので心強い。

人によっては日本円にして 4~5万円を払った人も居るというのにその紹介状があれば僅か160ドルで買える 事になっていた。安心して航空会社のオフィスに行く。いくつか当たるがやはり高い。

やはり、イエメニア航空のオフィスに行かねばならないか?その時、クウェート航空の オフィスの女性は愛想も良く、親身になって相談に乗ってくれ160ドルで購入できるという事で予約をする事に。

翌日のフライトで行き、2泊して帰ってくるというパターン。 しかし往路がキャンセル待ちとなる。それ以外なら3日後のフライトで行き3泊するタイプ。

ちなみに先生は帰国が5/4(つまり4日後)で時間がない。岐阜人のY氏は3泊するなら 1泊だけして帰る便にするといった。結局、翌日のフライトで2泊できるタイプを全員キャンセル待ちをかけて、私とI氏夫婦は3日後飛び、2泊するタイプを予約した。

20時にもう一度来てくれということでリコンファームの電話をして、最初の食事を とる。みんなでチキンを丸ごと食べ会う。大勢で旅ができる時の喜びだ。全く一人の時は 少し食事時が寂しくなる時がある。

20時前。クウェート航空オフィスへ行く。やはり翌日のフライトはとれなかった。 この時点で先生はサユーン行きの道が閉ざされた。

私とI氏夫婦は3日後のフライトで 2泊するタイプの予約ができた。Y氏はもともと1泊するタイプだったが2泊するタイプに 変更したいと申し出たがすでに予約一杯だった。

とりあえず発券してもらい。宿に戻る。初夜。何という響きだろう、、、私の初夜(笑)は岐阜人のY氏と迎える事になった。

ちゃうちゃう。ハニム~ンなら初夜ともで言うだろうが私にとってはなんの変哲もない単なる旅先での初日の夜になる予定だった。

が、旅の神はちょっとした悪戯を私たちにした

それも嬉しい悪戯を。ちょっと前にイエメン風のサウナ風呂に行った私とY氏は喉が渇いていたので、 水でも買いに行きましょか?ってみんなを誘って

先生、I氏夫婦を伴い夜の散歩も兼ねて旧市街のお菓子のような家が連なる世界遺産の街中を歩いていたら細い路地にあたり、大勢の子供達にまた囲まれました。

やがて今度は大人たちが皆こっちに いらっしゃいと手招き。誘われるまま土煉瓦作りの高層建築(7~8階建)の螺旋階段 のように巡らさられた階段を上へ上へ上がっていく。

一人なら怖くて行けないが今日は5人。 やがて日本で言うところの応接間に当たる「カートルーム」がある最上階に到達した。

熱気がこぼれている。 楽器を演奏し、手拍子が打たれ、歌が歌われている音が漏れている。

恐る恐る足を踏み入れる。

なんと、結婚式の宴会場だった。

しかし、男だけ(^^;;

さすがアラブ社会。イエメン名物カートをやってるおっちゃん、兄ちゃん、おじいちゃん。

ハニム~ンな訳

どうやら私は2度ハニム~ンをすることになりそうだ。 その1回目が今回。
といっても今回は相手はなし。さしずめ、予行練習ってとこかナ?(笑)

結論を急ぎましょう。つまり今回の旅は新婚ホヤホヤの夫婦とほとんど旅程が 一緒だったのです。

それはまるで私が新婚旅行をヴァーチャルに体験している そんな感じだった。だから私にとってもハニム~ン。 もちろん、その夫婦にとっては本当のハニム~ン♪ 簡単に夫婦を紹介しましょう。


旦那さんは見た目は私と同じ歳位。しかし実は8歳上のバリバリのパッカーI氏。

私の今回の荷物を見て「全盛期の俺のようだ」と嬉しいことを言ってくれはるサラリーマン2年目。仕事の関係で今度ロンドンに転勤するが、頭の中は 週末は欧州のどこへ旅に出かけようか?で頭がいっぱい。

本人の供述によると(笑)海外出張も仕事の書類を広げる前に周辺諸国とその国の地図を広げたという。そんなホントの旅人らしい。

奥さんは手術室のナース。普段は滅菌!滅菌!という仕事状態。果たしてバックパッカー的新婚旅行を最後まで耐えられるのか?愛称は「さっちゃん」いつも気配りをしてくださる素敵な女性。 しかし、実態はナニワ・商人の国出身の娘。


そんな二人の会話で印象的だったのは「これからも毎年新婚旅行しような♪」 でした。私もそんな台詞を言う日が来るのでしょうか? そんな二人の新婚旅行を見届けた私はI夫婦公認・新婚旅行見届け人でした。

この二人にはUAEのアブダビ空港で出会いました。あと同じくアブダビ空港で 出会ったのが岐阜県民Y氏(2歳上)

空港のトイレの男女表示


(左)男性トイレ。白い服の上にかれらはジャケットを羽織る。(右)女性トイレ。町中はこんな人ばかり。

さらっと書きますが、私はUAEのビザは持っていませんでした。利用したガルフ航空ではトランジットホテルを用意していると旅行会社を通じて言っていたの ですが、そのバウチャーを関空で受け取るのかどうか?

ちゃんと聞いていなかったので私はGWのババ混みのチェックインカウンターで全日空の職員と激しくやり取り 私の後ろは長蛇の列。

しかも、さらにマイレージの会員登録手続きまでしてしまうというイヤな乗客と化していた。旅行会社に電話で確認を取ってもらうために時間はドンドン過ぎてゆく。

離陸50分前。手荷物検査のところはめちゃめちゃ すごい列。今まで見たことのない長さ。

焦る。

間に合うのか?出国審査のときに トランシーバーを持った人になんか呼び出されるシーンを容易に想像できる。

仕方がないのでとりあえず出国し、飛行機のゲートに連絡を入れてもらうことに。 出国審査では離陸5分前なのに悠然と並んでいるバカか心が広いというか落ち着いているというか危機感のない人が沢山いて笑けた。

で、結局、アビダビ空港でもらってくれということになり、そのまま私は飛んだ。 香港で全日空からガルフ航空に乗り継ぎ、バンコクで一回着陸し、飛行機は アブダビ空港へ。

さて、トランジットホテルである。もちろんビザがないので空港内のエアポートホテルかと思いきや違うようだ。

それどころかガルフ航空の 職員の手際の悪さがさらに作業効率をさげ2時間以上も待たされる。 ようやく、サナア行きの客は集まれという号令のもとヨルダン人の農家を先頭にイミグレーションへ。

その間、ゾロゾロと彼のあとに付いていき、とうとうパスポートを預けたまま、ビザなしでイミグレを通過!

ところが、今度は別室に行きかけたと思うとまた元の入国前のところへ (つまり、空港内へ)それからまたイミグレをぞろぞろ団体で歩く。

かと思うとまた戻り・・・を数回繰り返してやっとトランジットビザが発給された。 思わずビザスタンプが増え嬉しがる私(^^;;

しょぼいSFのセットみたいなアブダビ空港内

やっとの思いでUAEに入国を果たした私は眠さ100%!そのままバスでトランジットホテルへ。

着いたら部屋数が足りないからとさっきの岐阜人Y氏と相部屋になる。

めちゃくちゃ綺麗なホテル。プール付。着いたら着いたで食事だと。

食えるかーー!!!

でももったいないから食べる。しっかし、早よ、寝させろぉ~。

やっとのことでようやく私は眠りにつくことができ、ホテルの部屋が広すぎて全然 落着かないと思っていたのは最初だけでした。

ハニム~ンinイエメン(社会人イエメン編’00)

いつからだろうか?イエメンという国になぜか憧れていた。 そういえば1999年の夏、旅HPの管理者たちが大阪に集まって 呑み会(いわゆるオフ会ってやつ)があった。そのときの出席者にも 同じ憧れをもっている人がいた。どっちが先に行くかな?私がさきぃ~! と私のどっかに競争心?があったかも。
ある休日、私の足は旅行会社に向かっていた。目指すはイエメン! よく考えると私は中東に行くのは初めて。本格的イスラム国。大丈夫か? 初めてのGWというピーク時の旅。どうなる?いやはや珍道中でした。 あまりにも楽しい旅だったので次の行き先は慎重にしないと旅に飽きが 来そうでコワイ。。。

ハニム~ンな訳
… 初夜
朝陽を受けて、ス~ラぁ♪
日本人1人とドライバー行方不明(前編)
日本人1人とドライバー行方不明(後編)
のんびりサナアで休日
いざ砂漠へ
命の水を飲み干すまで
帰ってきた休日
着陸=離陸20分前

見上げても、振り返ってもハングル(社会人韓国編’00)

「焼き肉食いたいなぁ?韓国行こうか?」
全ては私のこのヒトコトから始まりました。 メンバーは高校時代の友人達とという事で私がメールで連れに 言い出したのは出発の9日前。 急な私の発案に見事予定が空いていたのがただ一人。 私に拉致されることになりました。 旅行会社に電話して問い合わせ、キャンセル待ちをかけたのが1週間前。 予約便のSTATUSがOKになったのは出発の3日前(笑) 運良く現地滞在時間が最も長い組合せが取れました!

記念すべき私にとって初めての一人旅でない海外旅でした。 しかも、面白い事にこの旅の相棒は高校時代仲の悪かったウメちゃん 高校卒業してから共に京都に残り大学生となった二人は高校時代の仲の 悪さが嘘のように遊ぶようになり今でも結構つるんでいます。 高校時代は社会の定期テストの点数で競って、勝った時はフッと影で 鼻で笑い!?負けた時はあんなに悔しがって異常な程張り合っていた そんな二人の珍道中ではないけど旅 僅か二日間に凝縮された社会人ならではのゴーカイ且つパッカーの片鱗を 見せた私らの旅。こんな旅もあるんやなと読んでもろたらええかな?

・見上げても、振り返ってもハングル
・韓国文化事情
・ヤバイ!ウメちゃんが切れる?

Ride on motor-bike(ツーリング編)

 前日の夜、土産物屋を冷やかしていたら店員のにいちゃんと話し込む。 珍しく私の英語が通じるのが嬉しくて、意気投合。

  どうやら私と同じ年であることまでわかり益々盛り上がる。 昨日までどんなところに行ったのか?という話からサイゴン近郊でいいビーチが あるという。

 それで、ビーチまでツーリングに行く事に。彼の名はホアン。 日本語も少し分かるもよう。文字も「わたしはホアンです」と小学校1年生並の 字を書ける。

 大したもんだ・聞くと、日本人旅行者と付き合っていたらしい。 「日本人の女の子は良い」と絶賛していた。で、彼のバイクホンダのドリームⅡで ビーチを目指すことになった。


ギャング?

アジア各国の都市部の排気ガスはすごい。
サイゴンもその例に漏れることなく強烈。

 仕方なく、サングラスにマスクといういでたち(^^;;
まるでバイクに乗った「大人ちびっこギャング」
行く前に郵便局で絵葉書を投函。

 彼がその間にガソリンを入れてくるというので 暫く待っていると近くのシクロドライバーが「明日はどこに行くのか?まぁ茶でも 飲みながら話をしようと」声をかけてくる。

 まっ、茶くらいはええかと飲む。 彼のスカウティングはすさまじく気の弱い人なら間違いなく負けるだろうな。 わたしは丁重にお断りした。何しろ明日は帰国日だから。。。


フォー(25K)

 色んな味のフォーがあります。これは色は濃くて辛そうだがこれまた旨い!!旨し国だわ、ココ
ひそかに横に映っているのがサイゴンビール
飲みやすかったです。(単純な表現しかできない^^;;)

 バイクはひたすら走る。お尻が痛くなるくらい。排気ガスも恐ろしく鼻の中が 真っ黒になりそう。ホアンが心配してマスクを買ってくれた。 走ること2時間半。

 「ビーチはどこだろう?分からないよ。」とホアンが言う。 「はぁ?行ったことがあるって言ったやん。」と私。

  「いや、ない。初めてだ。今日は夜の仕事があるからあきらめて帰ろう。」とホアン。 ちょっと待て、言ってることが全然ちゃうやんけ。

 しかもガソリン代の5ドルだけで いいからくれと言っている。私が怪訝な顔をすると、「いや、いくらでもいいから 君が決めてくれ。

 いくらくれるのか?」というので私は着いたら考えるよと答える。 ホアンは来た道を戻る気配がない。ひょっとして私にかまをかけているのか?

  もし、私が出した値段で彼が損をしない額ならばそのまま帰ると店での労働もできる。 私からのは臨時収入になる。私は駆け引きだと思い、あえて戻るまで値段を提示しない と宣言した。

 案の定、「あっ、海が見えた!」とホアン。 ようやく、ビーチに到着した。着いたら着いたでビーチパラソル代やら、チェア代やら どんどんエクストラがかかる。

 しまった昨日の約束ではそこまで込み込み料金にしてなかった んで、腹が減ったのでカニを食おうとホアン。

 カニ4杯でなんと5ドルとか言う。 この国の物価にしては異常に高い!本当なのか?私は疑うが売り子はヴェトナム語しか 話せない。

 仕方がない。してやられた!と思いながら支払う。まっ、これが学生時代なら 「食べない」と言っていたところだが、社会人となった今はしゃーないなと思えるように なった。

 慣れというのは恐ろしいものだ。癖にならないように気を付けなければ・・・

 私はビーチでお昼寝。しかもパラソルの外で。ホアンは泳ぎに行った。

  「君は泳がないのか?」とホアンが言うが、さっきの件もあるのでお金、カメラを置いて 泳ぎに行けなかった。

 ちょっと重症かな?あまり人を信じられないというのは旅を面白くなく させるので注意が必要だ。

 20分ほど焼いていたらどうやら、ヒリヒリしてきた。ひょっとして火傷?

 もうビーチは飽きたので帰ろうということになり、14時過ぎにビーチを後にしてまた サイゴン目指して排気ガスの中をひた走り、到着するころには少し辺りが暗くなる夕方に なっていた。

 こうしてやけどを負い、疲れきった私はあっという間に旅の最終日を迎えていた。

 今回はやけにあっさり旅が終わってしまう。 宿に帰って旅を振り返る。そーいえば最終日はヴェトナム戦争博物館に行った。

 これはかなり勉強になった。ちょうど日本人の誰かの写真展もやっていたので併せて見る。 ありきたりの言葉だけど戦争の惨禍がふたたび繰り返されないようにしていかねばならない と思わせるのに十分な写真の数々だった。

 これは是非、サイゴンを訪れる日本人の皆さん、 いや、旅行者の皆さんには行ってもらいたいと思う。

 ヴェトナム戦争に始まり(クチトンネル)、ヴェトナム戦争に終わった(戦争博物館) 今回の私の旅はまるで社会学習旅行。

 でも、そいう視点の一人旅もまたオツ?だと 思いますが、皆さんはどう思いますか?

メコンクルージング(ミトー編)

 今、バスが故障しちゃったのでバスが止まったレストランの前で ぼぉーっとしています。今日、何か急ぎの用事のある西洋人は ガイドさんに食って掛かっています。そんなんしたってバスは直らへんヨ
 観光を終えて帰りのバス。爆睡していた私は急に止まってガイドが 何か話をする声で目覚めた。

 「何かが壊れた」らしい。「あっそ」 トラブルらしいトラブルもなく順調だった私の旅にトラブル発生!

  どうするかも聞かされず、私はまだ2日あるので全然平気だった。 一人の吠えてる西洋人を除いて、皆のぉ~んびり構えている。

 飯を食ってる フィンランド人も居る。 今日は楽しい一日だったなぁ・・・と振り返る。

 朝8:10出発。パイナップル農園で取れたて?ピチピチ?のパイナップルを 食う。めちゃうま。その後、ココナッツキャンディー工場へ行く。うまい。

 メコンクルーズの時、川沿いのレストランで結婚式をしていた。 ビデオカメラなんかで撮影していて、どの国も同じやなぁ・・・と

農園の子供ら

 丸々と太っていて、美味しいパインの食いすぎ?
子供の愛敬にまけてパインを購入する西洋人多数(笑)
私は試食で腹いっぱい♪

 バス窓からマーケットの売り子へ

バスの窓からマーケットの売り子にカメラを向ける
「ヘーイ!」と叫ぶ彼らに向けてワンショット
笑顔からこぼれる白い歯が素敵な笑顔に輪をかけた

 手漕ぎで進む先はジャングルじゃないけど
のどかで、静かで、心が落ち着く
船頭に促され船で立ち上がると上の草木に
てが届きそうなくらい、自然の真っ只中


 アオザイじいちゃん(写真準備中)

 乾季の為、川底まですぐそば。川幅も狭くすれ違いが
ことのほか大変そう。でも、そこはプロ。上手く
すれ違います。


 メコン川のクルージングは最初、大き目のボートでクルージング。 そのあと、ややジャングルみたいなところに入って4人ずつ手こぎボート に乗る。「立ち上がってごらん」と言われ恐る恐る立ち上がる。 周りの草木に手が届きそう。

 狭い川?をボートが行き交う。面白い。 デルタ地帯を縫うようにボートは進んでいき、ぼぉ~っとしてるだけで 楽しい。毎日こんな風にのんびり過ぎ去っていけばいいのになぁ・・・

 やがて、大きな河へ出る。全部で何時間のっていたのだろうか?って 時を忘れるほど気持ちいいクルージングでした。 


 1台のバスがやってきて、誰かがこっちに向かってくる。 私たちのガイドがその男と抱き合う。何やら話したあと、「はーい、皆さん あっちのバスに乗り換えて下さ~い♪」と。

  どうやら迎えのバスが来たらしい。なんだ、1時間ほどで解決したなぁ 大したトラブルにならなくてよかった。

 さっき吠えていた西洋人姉ちゃんも ご機嫌だ。そうして、バスはすっかり暗くなって21時を回ったサイゴンの 街へ帰ってきた。 

戦争体験(クチトンネル編)

のどかな田園風景に心を落ち着き、聞き取れない英語のガイドも 気にならない(情けない・・・)バスで隣りに座るはフィリップというフランス人の おっさん。時代なのか?デジカメを持っている。知っているか?デジカメ? みたいな事言う。知ってるっちゅうねん。私の仕事はコンピュータシステム エンジニアやってさっき言ったやんけぇ~。話しを聞いとけって!(笑)
ヴェトナムの混合宗教・カオダイ教。なんでもキリスト、マホメッド、釈迦 孔子、トルストイ、ビクトル・ユーゴーなどを聖人や使徒と仰いでいる。 ちょうど昼のミサ?時だった・・・。 まぁ、なんと老人の多い事。びっくり。

ヴェトナムといえばやはり民族衣装のアオザイ。 シルエットの美しさから女性物は人気ですが、実は男性用のもあって、 今回、おじいさんのアオザイ姿を見た時、 思わずシャッターを切っていました。 チャリンコに乗る時は引っかからないようにすそを持ってハンドルを 握るのがコツのようです。

クチトンネルから顔出してご機嫌な私

ようやく、目的地。クチトンネルはヴェトナム戦争時に使われた地下トンネル 中にはアジア人ならすっぽり隠れる事の できる小さな穴があって、ココはガタイ のでかい西洋人は一度入ると抜けるのが大変。必死になって抜けようとする姿が 皆の笑いを誘う。私はあっさり。 さすがサムライ!と言われた(^^;;

トンネル内は 非常に狭く蒸し暑い。 皆、汗だくになった。トンネルツアーが終わると 暑いお茶でもてなしてくれる。これがまた美味いのだ。お茶の国の人間でよかった。

フォー屋のばあちゃん

ばあちゃんの熱心な客引きに負けてフォーを注文した。英語のできないばあちゃんとはジェスチャーで交渉。でも味はおふくろの味系でぐぅ~(笑)
最安値の3,000ヴェトナム・ドン(1ドル=13,500ドン

なんでここに(出国編)

 実は今日は私の友人がドイツに旅立つ日。私は自分の旅立ちを隠していた。 関西国際空港で友人をめざとく見つけた私は「よっ!」と声を掛ける。

  一瞬何がなんだか分からず呆然とする友人 「えっ?なんで???」と友人のやっと出てきたその言葉に私は「見送りに来たで」と。

  「だって今日、平日やん。会社は?」「ウソ。俺も実は今日から出発♪」と私。

 「えー、どこ行くん?」と友人。「ヴェトナムやで」「えー、そんなこと何も 言ってへんかったやん!」「そーや、驚かそう思って・・・」云々かんぬん。
 学生時代は出国時にはみんなが見送りに来てくれていたけど、社会人最初のスペイン 行きは淋しかった。

 ネパールの時は高校の後輩にばったり会って、今回はたまたま 出国が同じ日ということを知ってこういう悪戯を考えた私でした。

 お陰で淋しさを紛らわすことができた。友人は初めての一人旅の出発までのひとときを 気楽に過ごすことができたんではないか?と思う。

 サイゴン到着。僅か6時間。猛暑を予想していたがあいにくの曇り空。

  とりあえずリコンファームとサイゴンの街の地図を手に入れてから安宿街の フォングーラオを目指すことにする。

 空港から市内へのタクシー相場は7~8ドルということだが、私は上記の条件を全て満たす ドライバーを探していた。相手は皆色々回ることに嫌がると思ったが意外に食いつく。

  十分、元を取れるのだろう。できればバイクタクシーで2~3ドルの方が良かったのだが、 熱心なドライバー氏にまけてついでに僅かなディスカウントに応じたことに免じて、彼の タクシーに乗ることにした。

 いくらの宿を捜しているのか?と聞かれ2ドルのドミトリーと言ったら、大笑いして 「2ドル?何年前の話をしているんだ?そんなもんないわ。

 しかもドミトリーなんて」と 言い、「自分の知っている宿を紹介する。大体15ドルだ」言う。

 「あほか!そんなトコ 泊まる金なんか持ってきてへんっちゅうに。」と私が言っているにも関わらずそいつは 私が見るところ中級ホテルばかりを回る。

 そしたら私が交渉すると言って、あっさり10ドル に値下がりしたがそんな高い宿には泊まれないと主張する私とサイゴンは最近治安が悪化して 怪しい宿なんか行ったら危険だと主張するドライバーと対立。

 段々、空気が怪しくなって ついにその時が来た。「フォングーラオに行け!っていうてるやろ!! 金払わへんゾ」と叫ぶ私。

 ドライバー氏はそれでも危険だから止めておけと言う。 「もうええわ。降ろせ。」

 ついに私はタクシーを降り、金を半分投げつけるようにして歩き出した。ココがどこかも 知らないくせに。。。

困った。どこかわからない。道路の名前は地図に見つけることができない。

 やがて、 シクロドライバー、目がいってる怪しい男、女の格好しているが男の声をした (恐らく)オカマ、子供、ヴェトナム語しか 話せない人たちにあっという間に囲まれた。

  ココで集団で襲われたらジ・エンド。でも、なんとかジェスチャーと地図とで現在地 を確認しようとするが、まったくわからない。

 そのうち、シクロドライバーが2,000ドン で連れて行くという。怪しい、安すぎる。試しに紙に数字を書かせたらやっぱり2,000ドン だった。

 と言うわけでシクロに乗る。辺りは何時の間にか暗くなって、知らぬ間に流れた 時を感じさせてくれた。涼風が気持ちいい。

 このまま寝てしまおうか?と思った時 「着いたヨ」と。ドミトリーを探していると言っているのに連れて行かれるのは小さなシングル 値段は7ドル程度。

 さっきのタクシードライバーの言うこともあながち嘘ではなかったのか? で、路地裏の方の宿で値段を聞くと最安値の5ドル。

 一応、キープということで他を見てから と宿を後にしたとき、突然背負っているDパックのチャックを開ける音が・・・

 振り返ると両手を広げて「へっ?何か?」っていうツラをした若い男が居た。当然チャックは 開いていた。「フンっ」と私はプイっとそっぽを向いたが怒りが込み上げてきて、

 「どついたろか」と日本語で一喝。
 そこは止めて別のおばあちゃんの宿にした(4ドル)

 さて、シクロドライバーに2,000ドンを渡そうとすると「20,000ドンだ」と言う。

  あほか!お前は2,000って書いたやろ?ってさっきの紙を見せたら、千の位に付ける点の 位置が2,000でなく、20,00にひとつずれていた。

 だから、20,000ドンだという。 私はシクロドライバーには当然2,000ドンしか渡さなかった。

 ツカレタ私は遅い夕食を取り、明日の観光ツアーの予約をした。

 隣りの旅行社には 日本人が一杯いたのになぜか私は西洋人しか参加していない方を選んだ。 ぐったりした私はそうそうに寝た。

旨し国ヴェトナム(社会人ヴェトナム編’00)

 ラオスでライスペーパーっていうのを食いました。 ヴェトナム料理っていうのは知っていたんですが、、、 美味かった。

  社会人になって日々の忙しさにいつしか忘れそうになっていた。 ふと1999年はどこにも旅立てないっていう現実が私を襲った。

Y2Kである。

 こんな仕事頑張った私にご褒美あげてもええんちゃうん? なんか美味いもんでも食いたいなぁ・・・

 そや!ヴェトナム料理って美味いらしいで。 12月18日土曜日。私の足は旅行社に向かっていた。

 財布の中には5,000円しかなかったのに・・・ カード払いで旅行の申込ってできない事をすっかり忘れて、、、


なんでここに? (出国編)
戦争体験(クチトンネル編)
メコンクルージング (ミトー編)
Ride on motor-bike (ツーリング編)

2年ぶりの再会(カトマンドゥ後編)

 リコンファーム、、、、

 リコンファーム—めんどっちくても避けては通れない儀式


 私はこのネパール旅行は初めてSQ(シンガポール航空)を利用しました。 エコノミークラスでもパーソナルテレビはあるわ、ゲームができるわ、 飯は美味いわ、映画も独り占めで見れるわ・・・ということで すっかり有頂天になって気分はもうビジネスクラス乗客気分。

 いつもなら行きの飛行機の中で到着国の首都にある航空会社の連絡先をメモって、リコンファームに備える私でしたが、浮かれた私はすっかり その作業を忘れていました(^^;;

 ここで、リコンファームって何?って人に一言解説

 予約したフライトについて私はちゃんと乗りますよ♪って予約の 再確認(リコンファームといいます)をする事です。

  大抵、私は電話で済ませますが、心配なときはその航空会社の現地 オフィスに行って、航空券を見せて「リコンファーム、ぷりぃ~ず」 って言って、コンピュータにカタカタと何か入力してもらって完了。

 これを忘れると予約したフライトに乗れないことがある。

 で、私はネパール入国後もすっかり旅に出れた嬉しさですっかりこの儀式? の事を忘れていました。

 ここで登場するのが先ほどのタツジンです。 「リコンファームした?」彼の一言で私は夢からようやく目覚め? 事の重大さに気付きました。

  もしちゃんと帰国できなければ、仕事に大きな穴があく・・・ でも翌日から違う街に行く私。今日はもうリコンファームに行く間がない。

  かといって日程をずらすこともできない。 タツジンは「旅行代理店に頼む?お金取られるかもしれないけど、 私の知ってるところなら紹介するけど、、、」と。

 お金はかかってもそんなに構わないが、チケット預けてそのまま航空券が 戻ってこないのも嫌やし、次の街から電話でリコンファームするにしても 電話事情の悪いネパールのこと、もしつながらなかったらそれこそ大変。

  全幅の信頼がおけない代理店。なぜならその代理店の人は日本語ペラペラ あやしい・・・。 かなり、悩んだ。そのうちネパール恒例の定期停電タイム。 人びとは慣れた手つきでロウソクに火をともし、何事もなかったように それまでの作業の続きを始めた。 私はこの停電で更に心が沈んだ、、、

  預けたら航空券がなくなるかもしれない、でもタツジンが紹介してくれた からきっと大丈夫だろう。ここで決断せずに次の街に行ってこの儀式に 失敗したらきっと私は予定通りには帰国できない。 いろんな考えが頭を過る。
・・・


 私はタツジンに賭けることにした。 そうして、私は疑うという大変失礼なことをしたが、結果的にちゃんと リコンファームをしてもらえたし、タツジンの知り合いということで 代金も取られず、ポカラでは楽しいトレッキングもできネパール旅の目的を 果たし、いい思い出を作ることができた。

 これもひとえにタツジンのお陰。アリガト、タツジン!

 数日前(平成11年11月某日)、タツジンからE-mailが届いた。 元気にしているが、そろそろお金が尽きそうなので帰国して働くつもり らしい。

 私は日本のこの不況を伝えるべきかどうか悩んでいる。

2年ぶりの再会(カトマンドゥ前編)

 出国直前、、、、

 私は関空に立っていた。チェックインも済ませぼぉ~っと・・・ その時、前から歩いてきた二人組の女の子のうちの一人がどっかで見た事 あるなぁ・・・って思って通り過ぎた後、小さな声で「○○さん(私の名前)?」 と呼ぶ声がして振り返るとやっぱり!という顔をして高校時代の後輩が 近寄ってきた。

 高校卒業以来6年振りの再会という場面で彼女から発せられた 言葉は「何してはるんですかぁ?こんなとこで・・・」だった(^^;; オイオイ・・・


 実は同じシンガポール航空に乗る彼女たちはシンガポール女二人旅だという。 海外旅行に慣れているという私を二人は完全に頼りにし、その日シンガポール の夕食は私が案内することとなった。思い掛けぬ再会であった。


 本当の再会の話は 実はここからで、翌日ネパールのカトマンドゥに 着いた私はやっとの思いでしつこい客引き達の手を逃れて、空港から一歩 出たときに突如やってきた男のヒトコトから始まった。

 「いやぁ、遅かったですねぇ・・・」 うわ、マジで来てくれた!!振り返る事2年前、私が大学4回生のとき、無事就職先を決めてすぐさま 旧ユーゴ諸国を旅したときにハンガリーからクロアチア ボスニアそしてイタリアまでを共に旅した人。

 通称「タツジン」である。 

  彼がネパールに留学してるという手紙をもらってたので「今度ネパールに行きます。 フライトは○月×日シンガポール航空○○便です。」という手紙を出していたらホントに迎えに来てくれていたのでした。

 もう何がなんだか分からなくなって とりあえず、「お、お久しぶりです。お元気ですか?って言おうと思ったんですけど 随分痩せましたね。」というのが精いっぱい。

 「いやぁ、インドで下痢しちゃってさぁ」 と相変わらず独特のお話し振り。思い出話に花咲かせながら私の希望でローカル バスに乗りカトマンドゥ市内までもうもうと煙をあげる中を咳こみながら移動。

 「とりあえず、何したい?」と聞かれ「腹減りました。」と言うとネパリ達が集う 定食屋に連れていってくれて遅めの昼食。

 その日の宿も紹介してもらい、上々 の滑り出し。一日中、カトマンドゥを案内してもらい、旅の目的であるヒマラヤ トレッキングの為にポカラへの移動手段を紹介してもらったり、お世話になりっ放し。

  明けて二日目、私はポカラへ向けて飛び立った。 実は他にも「タツジン」の世話になったのですが、 それはまたの機会に・・・

で、その続き

蒼い空とヒマ・アラヤ(社会人ネパール編’98)

ヒマラヤ山脈を見た事ありますか?
世界の屋根!ひとめ見た瞬間、次の目的地はここだ! と直感的に悟りました。さぁ、問題は休みの取り方だ。
時は6月。ヴェトナム行く予定もあったけど休みの取れ そうなのは11月。そうネパール旅行のベストシーズンなのだ!!

2年ぶりの再会(カトマンドゥ編)
・象酔いと殺人事件と真夜中の逃亡(チトワン国立公園編)
・ヒマラヤが手に届く湖の街(ポカラ編)
・マチャプチャレ、アンナプルナ(ダンプス編)
・ネパール写真館 (ネパール写真満載!)

パエリヤ食いに(社会人スペイン編’97)

サグラダ・ファミリア大聖堂(バルセロナ)

パエリヤっていう食べ物ご存知ですか?


「世界ウルルン滞在紀」っつう番組でパエリヤ
ていうスペイン料理を知りました。
それがなんというかめっちゃ美味そうなんです。
思わず、よだれがじゅる。(^^)
さくっと9月下旬から10月上旬にかけて社会人の
必殺土日を含めた9連休っちゅうやつでマドリッドに
飛びました。しかも初めて英国航空という欧州系
メジャーな航空会社を使って、なるほど社会人の旅。
でもこれが裏目に出てしまった。
パエリヤの写真アップしました。
よだれを垂らさないように(笑)
・Land again ? (マドリッド編)
・ガウディすごい!?(バルセロナ編)
・”水道”の縁の始まり? (セゴヴィア編)

社会人編(’97〜)メニュー

社会人編は短期で数が多いのでメニュー化

・🇪🇸パエリア食いに(社会人スペイン編’97)

・🇳🇵蒼い空とヒマ・アラヤ(社会人ネパール編’98)

・🇾🇪ハニム〜ンinイエメン(社会人イエメン編’00)

・🇻🇳旨し国ヴェトナム(社会人ヴェトナム編’00)

・🇰🇷見上げても、振り返ってもハングル(社会人韓国編’00)

・🇵🇬感動的世紀超え!まいど21世紀(社会人パプアニューギニア編’00〜’01)

・🇹🇷 🇯🇴 死海に浮かびませんか?(社会人トルコ・ジョルダン編’01)

・🇲🇲パゴダとバスと下痢と私(社会人ミャンマー編’01)

ローマで休日(イタリア編)

ほんまにローマで休日にするつもりだったのです。 ところが、ボスニア、クロアチアと一緒に旅してきたある男が一日でローマを観光しよう! しかも徒歩で!と誘うのだ。私はここまで一緒に旅したのも何か縁だからとことん 付き合ってやろうと思い、朝早く宿をあとにした。テルミニ駅近くに宿をとっていたので、午前中は共和国広場→スペイン 広場→トレヴィの泉→最高裁判所→サンタンジェロ城→ヴァチカン市国に入国。 →ヴァチカン美術館で最後の審判だけ真剣に見て→パンテオン→ 真実の口(サンタ・マリア・イン・コスメディン教会)→フォロロマーノ →コロッセオ・・・ ふぅ、つかれたぁぁぁ。という感じで足は棒。でも、一緒に歩いた男曰く、「俺と一緒に歩きで観光して最後までついて来たのは、 君が初めてだよ。」と。誉められてるん??


サラエボのある家庭の話~ボスニア戦争の真実~

初日
雨のち曇り
サラエボのバスターミナルでファビオに紹介してもらったホストファミリーはBORIS家である。
軍人のお父さん、料理上手のお母さん、ボスニア戦争で狙撃され10ヶ月も入院したこともある落ち着いたお兄さん、4年間従軍して、今は犯罪学を学ぶ大学3回生で心理分析官の弟。
お父さんは元商店を営んでいたが、ボスニア戦争で軍人に転身し、今はオフィサーという地位にある。
まず、BORIS家で出された夕食のメニューは私たちの期待通りのボスニア料理。
英語が得意な弟が夕食に呼びに来た。
トルコ支配の影響を受けた料理ではあるが、MUSAKA(ムサカ)というポテトと卵と肉をオーブン焼きしたもので、めちゃウマ♪他にはオニオン付きトマトサラダ。美味い!!
食事も進み、会話が弾む。彼らはこちらが尋ねる前に戦争体験談を話してくれた。実はなぜボスニアに来たのか?と最初聞かれ、ボスニア戦争の情報はあまり日本に流れてこない事、戦争を知らない世代としてこの目で確かめておきたかった事など話していた。 そこで、BORIS家の弟ことダルゥコ氏は物価の話をした。
戦前は何もかもが安かったと。戦争が始まって、月給6ドイツマルク(以下DM)の生活のなかで 卵1個8DM、ガソリン60DM/リットル、タバコ(ボスニアで平均的に吸われるDRINA)10DM/個、 ゴラジュデ(激戦地の地名)ではタバコ80DM/個で米のみ支給されていたという。
それら高価な品々をどうやって手に入れたか?、今まで生き抜いてきたか?というと家にあった数々の 家具調度品を闇で売り、闇で仕入れたという。全て、生きていく為。
その夜、80%の人が失業しているという事実。20%の人が僅か200DMの月給でしのいでいる という現実を知った。
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ボスニアで平均的に吸われる煙草の銘柄は”DRINA”
ボスニアを流れる川の名前。私が行った時(’96.9)は1DM/箱。

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2日目
晴れ時々曇り
朝食はパンとはちみつとめっちゃ美味しいジャムそしてクセのあるチーズ
ダルゥコの兄は私たちが観光できるように街の中心へ借りてきてくれた車で街の中心まで連れて行ってくれた。
シートベルトはない。窓ガラスもない。サスペンションもガタガタでお尻が痛い。でも、借りてきてまで車に乗せてくれるなんて・・・。道路は砲弾が落ちたあとだろうか? ぽっかり口を開けた場所が至る所にある。それも半端な大きさでなく、車一台はまるまる 入りそうな窪みである。行く道すがら、彼は色々建物の説明をしてくれた。 ちょっとした観光ガイトである。
昼は観光。街のオープンカフェに入った。そう、もう平和が徐々に戻りつつあるのだ。人々は太陽の下、お茶して話に華を咲かせている。1DM/杯。ちなみに世界のジャーナリストの 拠点「ホリデー・イン」ではカプチーノが3DM/杯。
でも、どうしても街に残された戦争の傷痕に目が行く。砲弾の後、ガラスのない窓。いまや、子供の隠れんぼの場と化した廃屋、等々。
食事の店に入っても材料がないと言って最も高い料理しか提供してくれないレストラン (もちろん、その店は出たが・・・)やっと見つけたと思えば8DMのスパゲティー。オーナーは作りすぎたのか?お代わりを勧めるのでもらうと皿が山盛りになって戻ってきた(笑) 歩いてBORIS家に戻る。道中、子供たちに道を聞き、チョコレートやおかしをお礼にあげる。 戦争でなかなか甘い物にありつけない子供たちは大変喜んでくれていた。
夜はダルゥコの彼女とその姉もやってきて賑やかなディナーとなった。
ボスニア戦争の話もまた出た。この日はセルビア人と当時の国連の明石康代表が批判の対象となった。
明石代表がセルビア系ボスニア人以外にそう思われるのは仕方がないことだ。 対話による和平を目指した明石代表とセルビア悪玉説を掲げる欧米諸国とでは その対立構造から明石代表が全ての層に受け入れられる事はありえない。ましてや 非セルビア人からすれば悪者そのものである。これにはボスニア史を語らずして理解されないだろう。 機会があればここで紹介するのもいいかもしれないと思う。

ディナーのメニューはこうだった。ボスニア風パン(特別らしい)、目玉焼き、焼きピーマン、オニオン・トマトサラダ、2種類のチーズ(牛、羊)、種々果物、デザートでチェリーの砂糖漬け。
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ダルゥコの兄は盆栽が好きで戦前はやっていたという。
今はそんな余裕はないが、落ち着いてきたら再開したいと
盆栽の本を見せてくれた。願いが叶うのも遠くはないだろう。。

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左からお兄さん、ダルゥコ、その彼女、その妹、旅連れ、私
BORIS家の夕食風景

3日目
あっけない別れだった。6:30に起きて7:15のバスに間に合うようにと お兄さんが車で送ってくれた。すぐに出発の時が来て、熱く抱き合って、、、(でも照れくさい、、) 私たちは戦禍の残る街”サラエボ”を後にした、、、
行き先はドヴロブニク。最高に美しく、街全体が世界遺産という街です。

タイプライターを背負った男(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ編)

 この写真はボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエボの様子である。

 内戦のすさまじさを物語るこのビルは窓ガラスがグシャグシャの状態で
ひとたび地震でも起これば木っ端微塵となりそうなビルである。
ボスニア国内では このビルを危険だから壊してしまおうという意見と
これはボスニア内戦を物語るモニュメント・負の遺産として後世に残そう
という意見が真っ向から対立している。

 私は後者の意見を支持する。
 修復などしつつ原形を限りなく残し危険度を下げて、後世に伝えるべき
だと思う。2度と同じ過ちを犯さないためにも・・・

さて、クロアチアのスプリットという町からバスに揺られ 途中、
モスタルという壊滅的被害をうけたボスニアのモスレム人の拠点の町の
破壊の限りを尽くされた様を車窓から見て、身震いし、やっとの思いで
サラエボのバスターミナルに到着しました。

当時、韓国人を含む4人でやってきていた私たちは今の時期、丁度
ボスニアで統一選挙が行われているのを知っていた。皆、歴史的瞬間を
見届けたいという気持ちでいっぱいで、まさか世界中の報道陣が集まって
いてどのホテルもまんぱんになるという予想をする事を忘れていた。

”あぁここがサラエボか・・”という到着の感動 に浸っているとき、
”君たちはどこのホテルに泊まるんだい?”
と一人の西洋人が声をかけてきた。

”これから探す”って言ったら、
”この2,3日は無理だよ。 今、何の時期か知っているのかい?”
”もちろん!統一選挙だろ。その 歴史的瞬間を見に来たんだよ。”
と私たち。

 それに反論して彼が言うには、
”だから大変なんだ。報道陣が皆ホテルを押さえているんだぞ。斯く言う
私もその一人だが・・・”
と言って自らの背中を指差す。

そこにはカバーをかぶったタイプライターがしょわれていた。
かっこいぃー!商売道具のタイプライターをしょって移動するなんて・・・

くぅ、かっこいぃ。

 黒色のジーンズに、青地のギンガムチェックのシャツに黒のジャーナ
リスト・ジャケットといういでたちで、背中にタイプライター。
名前を聞くと”ファビオだ!”と一言。

残念ながら彼の写真はない。

結局、彼が知り合いの民家に泊めてもらえるよう頼んでくれた。
その家の水は内戦の影響で朝7時から1時間しか使えないようになっていた。
それなのにシャワーを浴びたいか?と聞いて答える間もなく、1Km離れた所
まで行って水を わざわざ汲んで来てくれた。
食事は何が食べたい?と聞くのでボスニアの民族料理!と言うとその家の
おばあさんまで出てきて家族に伝わる家庭料理を作ってくれた。

トルコ支配の影響で基本はトルコ料理に似ているがおいしくて調子に乗って
おかわりを連発しているともうお腹一杯 と言っているのに
”まだ食べろ!おいしいだろう。”とすすめまくる。

お腹一杯でお腹をさすって いたら今度は1年で数回、お祝いのときにしか
食べないという自家製のデザートを奥から 取り出してきてすすめてくれました。

有名ホテルもこんな惨状

窓ガラスの吹っ飛んだ中央郵便局

半分焼けてしまっているサラエボ中央駅

続きの話…

サラエボのある家庭の話~ボスニア戦争の真実~

魅惑の国(クロアチア編)

 綺麗な街でしょう!クロアチアの飛び地の領土。

  かつては偉大な都市国家でもあり、その美しさから確かアドリア海の真珠とまで 言われた南ダルマチアの街ドブロヴニク。

 その街の周りを取り囲む中世の壁の 上へお金を払って登った甲斐がありました。街を囲む壁の上をぐるっと一周する だけでこの街が自分のものにでもなったような気分になれるし、当時はまだ戦後 間もなかったので観光客も少なく、最高でした。

 真の魅惑の国です、私にとっては。

本当は海の反対側に大きな山があってその上から撮りたかったのですが、

なぜかタクシーしか行けそうになく、しかもタクシードライバーは皆怪しかった ので断念しました。

でも、次行くときは絶対登ろうと思います。